徒然なるまま書き綴ります
この記事を通して季節の移ろいを感じてもらいたいと目論む、函南在住の猫好き女のブログエッセイ。
秋のはじまり
9日9日。
重陽。
上巳の節句が桃の節句なのに対して、9月のこちらは菊の節句である。
ひなまつりや端午の節句、七夕なんかが市民権を得ているのに対して、人日(正月七日)と重陽は五節句の中でもいまいちマイナー。あまり知られていないけれど、ひとつひとつの季節の催しを静かにゆっくり味わうのが素敵な大人というものさ。
さて、秋のお祝いは少し大人の苦味を出して、香り高い菊酒を一献。
ほくほくの栗ごはんを炊いて、
焼きものには、粟の生麩、蒟蒻、山芋、丸茄子、しめじと秋のおいしいを田楽に。彩りには焼き栗、ディル、枸杞の赤い実を添えて。
サラダは甘い無花果に生ハムを巻いて塩胡椒、レモンでシンプルにして、可憐な菊の花びらをはらはら散らす。
素材の味を楽しむ秋は、きっと深くて愉しい日々になりそう。
夏の終わりの九龍珠
コロナのせいだろうか、
今年の夏は消えるように終わった気がする。
海やプールにも行かなかったし、お祭りもなかった。
たっぷりと残ったブルーのかき氷シロップ。
ボトルで残ったソーダ水。
まるで消化しきれなかった夏の象徴みたいに、キッチンの隅に残っている。
週末、ドラゴンフルーツが手に入ったので、九龍珠(クーロンボール)をこしらえた。
九龍珠はフルーツを閉じ込めたビー玉みたいな香港のデザート。
ドラゴンフルーツ、キウイ、シトラス、リンゴ、パイン、ブドウを小さく切って型に入れ、砂糖とレモン汁で味付けした溶かした寒天を入れて冷やすだけ。
まんまるい宝石みたいなゼリー玉が出来上がる。
大人になって初めて行った海外は香港だった。
子供の頃はテレビでジャッキー・チェンのカンフー映画や、ドラゴンボール、らんま1/2を見て育った世代。
ずっと香港という街に憧れていた。
この頃は香港はすでに返還されて、ビルの隙間に飛び込む啓徳空港も九龍城砦もなかったが、英語と広東語が飛び交い、街を埋め尽くすネオンの看板や玉石混淆のナイトマーケットの呼び声も怪しげな、あの混沌とした空気にすっかりと魅了されてしまった。
今でも香港映画は好きで、徐克や王晶の娯楽アクション映画やカンフー映画、ホイ兄弟や周星馳のコメディから香港ノアール、青春映画や恐怖映画と、なんでも見る。
この時期に特に思い出すのは王家衛の映画。
映画の中に溢れる香港の滲むようなネオンの色彩と瑞々しい空気感。
それは、甘く気怠い夏の気配に似ている。
レトロなガラスの器に入れた九龍珠に、ブルーのシロップとソーダ水を注ぐ。
今はなきあの頃の香港のノスタルジアを感じながら、最後の夏をすくって食べる。
朝顔市とカーニバル
江戸下町情緒溢れる夏。
「恐れ入谷の鬼子母神」で有名な真源寺の界隈では、毎年7月に朝顔市が開かれる。
青、紫、紅紫。
絞ったちりめんみたいな変わり種。
参道を埋め尽くす植木屋自慢の朝顔たち。
職人たちが腕を競う自慢の品々が、軒先から見ておくれと袖を引くので、一丁ごとに足を止めてしまう。
折しも町は七夕まつり。
色とりどりの薬玉や吹き流しが商店街を飾る。
横断幕を見上げればそこには、平成日本の大電波塔、東京スカイツリーが見下ろしている。
夏も佳境を過ぎてうだる暑さが続く8月。
浅草浅草寺界隈の目抜き通りがにわかに活気づくのは、ほおずき市と並ぶ夏の風物詩、その名も「浅草サンバカーニバル」。
そもそも、なぜ浅草なのか。
なぜサンバなのか。
ここはお江戸のネオン街か?
見紛うばかりのまさにカオスの様相。
絢爛豪華にデコレートされた山車に跨るはふんどし男衆ではなく、島田にビキニ姿もゴージャスな、粋でいなせな女衆たちである。
陽気なサンバのリズムに合わせて国籍不問の老若男女が踊り狂うド派手なパレード。
お祭り好きな江戸っ子たちのエネルギーが、残夏の暑さも吹き飛ばしてくれる。
もちろん、
月島もんじゃに丸の内では中華料理。
胃のエネルギー充電もけして忘れないぞ。
お江戸の夏は
暑くて、熱くて
おもしろい。
丘の向こうへ
丘をこえていこうよ
真澄の空は朗らかに晴れて
楽しい心
どこまでも続く夏の丘。
のどかな緑の牧場に、白い花咲くじゃがいも畑、そば畑、背の高いもろこし畑。
抜けるような青空の下、熟れた黄金色の麦畑がおしゃべりでもするようにざわざわと風にそよいでいる。
麦畑のかしいだ案山子が見上げるむこうで、
丘の上にはカラマツ林が気持ちよさそうに並んでいる。
緑の丘、黄金の丘、耕したばかりの土色の丘。
パッチワークのようにきれいに区切られた丘の波がはるかまで広がっている。
まるでカンザス州かと思うようなその光景は、日本の北海道、美瑛のもの。
美瑛にはいくつもの丘がある。
緑の丘にポツンと赤い屋根の家。
丘の上の洋館。
丘にはひとつひとつに物語がある。
私は丘が好きだ。
丘に続く道を登りきるまで、その先の景色には無限の可能性があるから。それに丘を登るとき、そこには気持ちのよい空しか見えない。
丘に続く道は、夢に満ちている。
ずっと上を向いて歩ける。