夏の惑星
夏に生まれたわたしは、どんなに暑くてもだるくなってもどうしたって夏が好きでしかたない。
抜けるような青空や入道雲も。
蝉の声も。
川面がきらきらするのも。
山や森の草いきれも。
アスファルトの逃げ水も。
夏練帰りの白い制服も。
一面の青稲が草原みたいにそよぐのも。
田を渡る風や蝉の合唱、沢のせせらぎに耳を傾けている時、あるいは木陰で午後のぬるい風にわずかばかりの安らぎを感じる時、「ああ、自分は夏のこどもなのだと」と改めて思う。
これはあの頃を思い出すとか現在と断絶されたノスタルジーとは少し違って、普段意識していないだけで常に心のどこかにある感情なのだと思う。
例えるなら夏の惑星にひとりぽつんといるのに、つま先から頭のてっぺんまでをぴったりと宇宙のように大きなものに包まれている感覚。
孤独を感じる隙もないほどの多福感、生を肯定され心の隅々まで夏の生命に満たされて、あるいは自身もまた夏という巨大な生命体のひとつの細胞としてそこにあるようなあの感覚。
生きている実感。
わたしは夏のこどもらしく、いっとき全てのしがらみを忘れて、夏の惑星に同化するのだ。
ところで、
ここ2年ほど我が家の窓にカブトムシが来ていない。
日陰にいても熱風が頬を撫でた。
水を張らずに荒れたままショベルカーが来るのを待つままの田が増えた。
河岸の土手はコンクリでのっぺりした。
冷房の効いた部屋には、風に揺れる風鈴の音も響かない。
蚊は相変わらず不快な羽音をさせている。
クーラーで冷えたオフィスから見る夏は、驚くほど遠い。
美しい夏の惑星が自重で崩壊してしまうとしたら、わたしの中の夏のこどもも一緒に姿を消すのだろう。